昭和40年11月14日 朝の御理解
言うことは安く、行うことはかたし思うことは、更にむつかし、そういうふうに頂いております。もちろんその思うことというのは、ほんとに思うただけでも心が、有難うなると言うような思い方のことです。自分の思いというものは、誰にも分かりません。もしご承知であるなら神様だけ。ほんとに私がいま思うておること、こう言う様な思いをもし人が見たら聞いたら、もうほんとにがっかりするだろうと。
ほんとにその自分の思いの中に、いつも神様が喜んで下さるだろうと言った様な思いを、思い続けるということは、そん、行うことよりさらに難しいというのです。確かにそうですね、皆さんもそう思われませんですか。もうほんとになんという浅ましいことを今、自分は思いよるじゃろうかと、ね、でこれを神様に喜んで頂くような思い方、それはその信心させて頂いておりますと、たまにはそのそれがありますね。
自分のいま思うておることが、ほんとよく申します出来る事なら、私はほんに自分の心を断ち割って見するごとあるちこう言う。もう断ち割って見せでもしたら、もうほんとに大変なこと。愈々信用を落としてしまうじゃろうと思うですね。どうでしょう。ならいっちょ見せちくれんの、ち。ほんとにそれを見せられるなら見せて、見せたら愈々それを包み隠しできておるからまあ、というところでしょうね。
お道の信心はこの、ある人が有言実行の道だと言う様な事を言うておりますね。いわゆる普通では無言実行と申します。言わずに黙ってその行うていく、ていうことなんですね。ところがお道の信心は有言実行だと。そこで私は思うのですけれどもね、確かに自分の心の中に喜びが充実しとるときには、言わんで済むですね大体は。いわゆるその、神様に喜んで頂く様な心の状態のときには、言わんで済む。
成る程金光様が、仰らなかったはずだなと、三代様、ね、はいはい、はいはいだけで、そのおすましになられた。もう言うなら自信たっぷり、自分の心の中にいつも、神様と交流しておられる、交うておられる。まそう言う様な心のご状態ではなかったじゃろうかと、ま思うんですけれどもね。ところが私なら私共の場合はです、ね、確かに言うことは安し言うことだけは言いよる、ね、ま行うことは難しと言う様な所に止まっておるのじゃなかろうかとこう思うです。
そこで私は思うんですがね、せめてその言うこととです、行うことのバランスの取れた生活でありたいとこう思います。ね。いわゆるほんとにおかげを頂きたいと思うならばです、ね、確かにお道の信心はある意味合いにおいて、いわば有言実行の道です。言わなきゃなりません。黙っとたっちゃ分からん。自分のおかげ受けたことを、人にそれ伝えていくのが神へのお礼とさえ仰るし、ね、
しかも、それが神になることぞとまで言うておられるのですから、やっぱり言わなきゃならん。お話しを聞いて助かる道ということはです、お話しをして助かる道であると言うことにも言える。ですから言わなければいけん、けどもその言うことがです、言うことが、ただ言うだけ、それこうどんやの、釜じゃなかばってん、ゆうばっかりでは、相手に通わんから不思議、ね、
いうておるどことが、実際なるほどあの人の言いござるが、そうじゃろうと思わせるだけのものを頂くためには、私の内容にです、それにバランスの取れた実行というものがなされておらなければ出来ません。お徳を受けると言う様な人達はです、言うことより、ま言うことを五言うならです、行うことは六も七も行うておる人達だと私は思うです。ね、私も言わんで済む様な私になりたいなと、こうほんとに思います。
ま今日は私はそこのところだけを、皆さんに聞いて頂いたんですけれども、せめて今日は、いや今日はじゃないけれども、ほんとに今日からそいう言う様な事をひとつ願いとさせて頂きたい。昨夜ちょうどご祈念、昨夜のご祈念前に伊万里の方達が皆んなでお参りになった。その中に新しくお導きを頂いて、お参りは出けていませんでしたけど、竹内先生の所まではお話しを聞きに見えるという、三人の新しい方達があった。
その中の一人に事業に失敗して、まあどう道を取ってよいか、ま途方にくれておられるという人のお願いとお伺いがあった。お初穂の上にそのことが、お伺いごとが書いてあった。どういう道を取らせて頂いたなら、良いだろうかというわけですね。どう言うような信心にならせて頂いたら、道が開けるだろうかということなんですね。そう致しましたらですね、道は公の方をとれ、と頂きました。
自分、自分のことではなくてから、意味は分かりません、本人の方には分かる事かも知れません。ね、公の方を取れと、そして元気な心で一心に縋れと頂いた。ところがその元気な心が問題なんですよね。元気な心とはどういうような心だろうかと私は思わせて頂いたら、頂くことがですね、卵の敵を取れ、ち。皆さん、どげな事か分かりますか。卵に敵がある、ここでは卵のお知らせを頂きますとですね。
元気がこう無くなっておる人なんかには、あの卵のお知らせを、昨日誰か言っていましたですね。ああ中村さんのお話の中にあったですね。中村さんてもう卵ばいっちょづつどん食べとったちゃ間に合わんち、いまの椛目は、ね、見掛けはいっちょでん中には黄なみが、三つぐらいはいっとるとが、いっちょ頂かなきゃいかんですよ、と言う様な事を先生から頂いたことがあると話しておられましたですね。
確かに今の椛目はそうです。ただ普通の元気じゃいけん、日ごろ卵一つづつ頂いて元気付きよるならです、それこそ中身は三つづつぐらい中身、黄なみのはいっとるくらいな、卵、元気を頂いてことに臨まなければ、事に当たらなければ、今の椛目はでけることじゃないと言うような、お知らせ、卵のだからお知らせは、元気な心というわけなんです。皆さんでも、一応はその元気な心を出されるんです。ね。
御造営なら御造営に取り組んでおる、そのご造営が段々進行していく、進行にしていくに従って、あそこもここもと、こう思いが増えてまいりますから、ね、つい二千万でよかったつは、三千万になる。三千万でよかったつが、四千万が五千万、五千万が、五千五百万になってしまった。こりゃ、いよいよもって、やはり元気を出さなければ、できることじゃないとこう思うんですね。
お互いが、一つ神様にほんとにお縋りするからには、元気な心でおすがりしょうと。今日も中村さんが言うておられましたように、タバコの好きな人はタバコをやめた、お酒の好きな人は酒を止めた、甘い物を好きな人はもう甘い物を断って、ね、それこそ、見たいテレビも見らずに頑張っておると言う様にです、そういう例えば一修行でもさせ、もう二修行でもさせて頂いて、ことの成就を願っておる。
そういう人達が打って一丸になって、このことに、ま、当たっておるという意味のことも、中村さんが話しておられましたが、また実際そうです。そうなんかも、元気な心がなからなければ、でけんのです。さ、ところがです、ね、自分の好きなものでもです、もう断たせて頂くという心は元気な心なのだけれども、ふんなら、さあ、それが続いておるけれども、その好きなものをです、目の前にちらつかせて、いうようなことになってくるとです、その元気な心が崩れてくる。これが卵の敵です。
いつも久保山先生と久富先生を例に出してから、すいませんけれど、結局そうなんです。ね、久富先生は言うなら辛いものが好き、ね、久保山先生は甘いものが好き、もうその好きもです、ただの好きじゃないですね、お二人とも。もうそれこそ、好きで好きで大好きでちゅうことなんです。ほんとにそうなんです、もう私は辛いもんより甘いもんがよかちゅう程度のもんじゃないち。
ま言うならです、もう好きなもんなら前に出てくると、目の色が変わるぐらい好きなんです。ね、ですからこの一番、こういうもうこれを食べたり、飲んだりせんならもう死んだ方がましというほど好きなものならです、断ってからでも、おかげを頂こうという心は、やはり元気な心です。その元気な心を頂いておるけれども、卵一つどん食べとったちゃ、その元気は、その心は、いわば片一方の敵に押しまくられてしまう。
返り討ちになってしまう、かえって反対に。ん、あれほど固く心の中に誓わして頂いておったことがです、あら、またとうとう失敗した、といったようなことになってくる。それでは私は、本当のことのおかげにはならない、と思うです。
成る程、元気な心で一心に縋れと言うことは、いうなら、好きなものでも敢然として断たせて頂くというような心で、縋ることが一心に縋ることだということになる、まそういうことを、私、書いてそれから説明もして、そういうふうに言うて下さいと言うて、ま、申しましたことでございますけれどもです。これはもう私を始め、皆さん、みんなが頂かなきゃならんとこじゃなかろうかと。
そこにそう、そこに事の成就も、約束成就も出来るならです、徳の頂けれる信心というのは、そう言う所からじゃなかろうかと。そう言う様な事でも中々、言う事は中々その、ま、言うことでも実はなかなか難しいもんね。今日からこういう修行に入らせて頂きますと言うことだけ、言うことでも実は、難しいです。ほんとに腹が決まらなければ、元気な心がなからなければ、でけんのです。
けどもその言うた事が、どれ程になら実際に実行がでけておるかというとです、これではおかげ頂けんはずだと言う様に、そのあやふやなものになってしまっておる。言う事易いという、その易い事でも実を言うたら難しい。ですからまず言えるだけの信心にならにゃいけん、敢然とお取次を頂いて、ね、これこれは自分には少しは無理だけれども、修行、大修行と感じるけれども、お取次を頂かなければなおできん。
だから御取次を頂けれるいわば、敢然としたものがいる。それを実行するということになったらもう愈々、元気な心がいる。愈々その元気な心を蝕むもの、その元気な心を吸収するもの、いわゆるその卵の敵を取らせて、根本的なところから取らせて頂くところの、おかげを頂かない限りは、ほんとのことの成就にはならない。そういうようなことをひとつ本気で自分の心の中に問うてみて。
そういうようなものと、対決さして頂く一つの雰囲気と言うものをです、私は頂くためにいうなら、一つ無言の中に実行していくと言うことも有り難いけれども、お取次を頂いて言うて、ね。また人に通うような表現をさしてもろうて、ね、あの人が言わっしゃるけれども、ね、ちった口うるさいけれども、することしてから言いよんなさるとだから、聞かん訳にはいかん、というようなところまでぐらいは、一つ行きたいもんだと。
その上にほんとに徳を受けよ力を受けよと、いやほんとに神様に認めて頂くような、私にならせて頂こうと、認めて頂くといういことは、神様のご信用を頂くと言うこと、神様のご信用を頂くと言うことは、御神徳を頂くと言うこと。まあそれがめざしではなくても、そういう私にならせて頂かなければ、いわば思うことはさらに難しというその難しいことの信心が、できないと思うのです。
言うことは易く、行うことは難し、さらに思うことはさらに難しのである。その思うことそのことがです、人間の幸せを左右するのです。自分の心の中に感じておるもの、自分の心の中に頂いておるもの、いわゆる我とわが心が拝みたいような思いなのです。これが、信心によって助かっている姿なんです。だから、結論すると信心とは、神様を拝むけいこではなくて、我とわが心が拝まして頂けるようなけいこなんだということになる。
そんなにいわば思うことはさらに難し、とはそういうような意味のことである。ね、ま、そこまで行かんに致しましても、どうぞひとつ、有言実行、言うておることと行うておることのバランスの取れた、いわば、おかげを頂かなきゃいかん。ね、五のことを言うておるなら、やっぱ五のことがなされておらなければ駄目、ね、そこを今日、私は、せめて今日は少しぐらいです、ね、
言うておることよりも、実際は行うておることのほうが、少しぐらいは、一つか二つぐらいは、多く、その頂いておるというような、おかげを頂くときです、も、心の中に、いわゆる喜びが頂ける。例えば、私が神様から頂いたことをです、ある場合には半分、ね、ある場合は八分、私は神様から頂いたことは、その程度にしか申しません。けども自分の信心を語るときには、自分の信心は五しかでけとらんてん、六も七も話しを言いよるようなときがある。
そのあとは淋しい。皆さんが共励会なんかにおい出られてから、自分のおかげ話しをなさるでしょう。私は今はそれほんとになくなりましたです、おかげを頂いて。なくなったと言うことは、そう言わんで済むようになった。いわば、十のものは、八ぐらいに留めることが、できるようになった。その八のものを聞いて頂いただけでも、充分皆さんに聞いて頂けるようになった。
以前、もうあちらこちらにお話しに来てくれといったような時分に、お話に参りました時分はです、なんかほんとに神様の御用をさせて頂いたのにもかかわらず、心は淋しいと言うような、実感があった時代があった。それをよくよくその基を調べてたところがです、自分なとうもしか信心がでけとらんとに、十二ぐらいでけとる様に話しとるもんじゃから、その五だけが淋しいわけなんです。
その淋しい心ではおかげは受けられんのです。ね、おかげ頂いてよかったと、人にお話させて頂いてもです、おかげ頂いてよかったと思わせて頂きよるときには、やはり自分の信心はうちばにうちばに、お話させて頂いても、相手に通うておると言った様な事でなからなければ、心に良かったとか有り難かったていうものは許されないです。そういう心を楽しみにです。
せめて今日は、言う事よりも行うことの方が、少しは上回っておると言うような、一日でありたい。そしてそういう一日がです、有り難いものである事が分かったら、ね、椛目の信心の上にはそう言う様な、椛目の人たちは中々言う事より行う事の方が上だから、あれだけの事が出来るんだと言う様な、おかげを頂きたいと思うですね。
どうぞ。